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租税、会計、経済学その他の覚え書き

剰余価値と租税

マルクスは租税について本格的に論じていないが、資本論を通して租税を剰余価値の分割された形態と理論的に位置付けている。ここでは租税を剰余価値の分割形態とした資本論の該当箇所をピックアップしておく。前半が原書ページ数、後半が新日本出版社の巻数、ページ数の順を記載している。なお資本論の執筆は一部から三部へ順番に執筆されていない。該当箇所の執筆年も不破哲三氏の論文*1からあてはめ記しておく。

 

資本論第一部第5篇第15章(s544、3巻p893、1966年1月~1967年4月)

「・・・租税の廃止は、産業資本家が労働者から直接くみ出す剰余価値の分量を、絶対に変化させるものではない。それが変化させるのは彼が剰余価値を自分自身のポケットに入れる比率、または第三者と分配しなければならない比率だけである。したがって、租税の廃止は、労働力の価値と剰余価値との関係をなんら変化させない。」

 

資本論第三部第1篇第3章(s59、8巻p81、1964年夏~年末)

「・・・この剰余価値が、一方ではさまざまな細胞区分形態−−資本利子、地代、租税など−−に分裂すること」

 

資本論第三部第2篇第10章(s191、9巻p311、1964年夏~年末)

「・・・第二には剰余価値が分割されるさまざまな部分*2(利潤、利子、地代、租税など)の比率によって、制約されている。」

 

おまけとして「賃金、価格および利潤」から同様の箇所をピックアップしておく。「賃労働と資本」は剰余価値の発見前であるが、「賃金、価格および利潤」は資本論第一部の完成直前の講演であるだけに剰余価値についても述べられている。租税が剰余価値の分割形態であるだけに、剰余価値の発見前と後ではその意味に大きな違いがある。前半が新日本出版社の古典選書のページ数、後半が光文社古典新訳文庫のページ数を記載している。

 

・賃金、価格および利潤(p156、p216、1865年)

「・・・物価の上昇は、雇主である資本家、地主、貨幣資本家に−−諸君がのぞむなら税金徴収者をこれにくわえてもよいが−−きわめて不均等な影響を及ぼすであろう、と述べたのは正しかったのであるが。」

*1:雑誌「経済」2017年5月号p178、179

*2:草稿では「部分」は「部分または諸カテゴリー」となっており、続く括弧の中はエンゲルスの手による

実地の調査以外の調査について

税務署から所得税の申告について聞きたいことがあると電話があった。

確定申告書の間違いを指摘され、訂正が必要なことを知り、こちらが認めると最後に「税務署側で更正しておきます。結果は後日通知を郵送しておきますネ。」と言われプツリと電話を切られた。

 

あまりの唐突なできごとに状況がうまくのみこめないでいたが、よくよく調べてみると「実地の調査以外の調査」という税務調査であることがわかった。

 

こちらとしては申告書に間違いがある以上は、間違いとして認めるものの、行政指導か税務調査かの区別をあいまいにしたまま、最後に「こちらで更正しておきます。」というのでは納得がいかない。

 

そもそも国税通則法改正の趣旨は、調査手続の透明性及び納税者の予見可能性を高めることにある。そのうえで調査の事前通知や結果の通知が法令上明確化された。にもかかわらず、法律においてほとんど手続きが規定されていない「実地の調査以外の調査」という領域で更正処分を行うことは調査手続きが不透明になり、予見可能性も損なわれることとなり、法の立法趣旨に逆行する行為である。

 

また国税通則法74条の13*1では調査(ここには“実地の調査以外の調査”も含まれる。)をする場合、職員の身分を示す証明書を携帯し、関係人の請求があったときは、これを提示しなければならないと規定している。電話での“実地の調査以外の調査”は身分証の提示を求めたくても求められないという状況においての調査である。となると電話での調査は法律が予定している調査でないことは明らかである*2

 

「調査手続の実施に当たっての基本的な考え方等について」と題する事務運営指針では実地の調査以外の調査として「電話又は書面による調査」を挙げている。法律に違反した電話による調査を事務運営指針で、さも適法な手続きであるかのように記載するのはもってのほかである。

*1:国税通則法74条の13:国税庁等又は税関の当該職員は、第七十四条の二から第七十四条の六まで(当該職員の質問検査権)の規定による質問、検査、提示若しくは提出の要求、閲覧の要求、採取、移動の禁止若しくは封かんの実施をする場合又は前条の職務を執行する場合には、その身分を示す証明書を携帯し、関係人の請求があつたときは、これを提示しなければならない。

*2:金子宏「租税法(第二十版)p851」では“通則法74条の13の規定は、単なる訓示規定ではなく、強行規定であって、これに違反する質問・検査は違法であり、それに対しては応答義務ないし受忍義務は生じないと解すべきである。”としている。

国債と租税

資本論では本格的に税制や財政について論じてはいない。しかし、ちょっとした話の横道にも物事の本質を突く、鋭い指摘がある。国債発行のツケは生活必需品への課税と形を変え国民が背負うことになる。

 

マルクス資本論において、租税を剰余価値の分割形態である*1としている。国債の発行とその償還は結果として税でまかなわれることとなるが、税の源泉は剰余価値である。国債が累積していくたびに増税が必要であるということだ。

 

国の借金はどういう意味を持つのか。古くて新しい問題である。

 

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 国債の裏づけとなるのは国庫収入であり、これで国債の毎年の利子と償還を保証しなければならない。そこで近代的な租税システムが、国債システムを補うために必要不可欠となる。国債を発行することで政府は特別な支出をまかなうことができる。その際に納税者はすぐには何も感じることはないが、その帰結として増税が必要になる。他方では次々と借り入れた国債が累積していくとまた増税が必要となり、そのため政府は新たな特別支出を行う際にはいつも、ふたたび国債を発行せざるをえなくなる。

 近代的な財政の基軸となるのは、生活必需品への課税であり(その結果として生活必需品の価格が高騰する)、そのために近代的な財政はみずからのうちで自動的に累進していく萌芽をそなえているのである。過大な課税は偶発的な出来事ではなく、むしろその原則である。(資本論第1巻IV中山元訳p462)

自由主義と法人税

 日税連の機関紙である「税理士界」(平成28年11月15日付)に、「税理士が絶滅危惧種に陥る日」と題した記事がある。AIの進化によってしても、実質基準や事実認識の判断にはまだまだ及ばない。ましてや税務調査、税務相談は無理だろうというものである。次いで「申告納税制度は自由主義国家における税の世界で最も民主的な手続きとして長い歴史の中で定着してきた。」、「税理士制度はその申告納税制度に極めて重要な役割を担う、いわば自由と人権を尊重し守るために、社会にとってなくてはならない、かけがえのない財産である。」とし、「税理士がなくなる日は永久に来ないものと確信する。」とまとめられている。

 ところで自由主義国家における税とは何であろうか。新自由主義を代表するミルトン・フリードマンの主著「資本主義と自由」によれば、自由主義においては、法人税は廃止すべき税であると指摘されている。国際的な法人税引き下げによる底辺への競争が加速する中、法人税廃止論もどこからかわき上がってくる可能性は否定できない。法人税がなくなれば税理士もなくなる。そんな時代も可能性としてはゼロではないように思う。

 

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 独占を根本から防ぐもっと効率的な手段は、税制改正である。まず、法人税は廃止すべきだ。また法人税を廃止してもしなくても、企業は配当として払い出さなかった利益も株主の所有に帰すべきである。具体的には配当金の小切手を送付するときに、次のような報告書を添付する。「株主の皆様には、一株当たり○○セントのこの配当金に加え、一株あたりXXセントの利益がございます。こちらは弊社が再投資いたしました。」報告を受けた株主は、配当金だけでなく、自分のものではあるが、配分されなかったこの利益も所得税の申告に含めなければならない。この仕組みでも企業が再投資するのは自由だが、再投資に回す利益を明言する以上、株主が配当を自分で別途投資するより企業の投資効果の方が高いときしか、再投資できなくなるだろう。これは、資本市場や企業活動を刺激し、競争を活性化するきわめて効果的な手段だと信じる。(ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」村井章子訳p247-248)

スミスの租税原則

 スミスの有名な租税原則。

「能力にできるかぎり比例」という部分をとりあげれば応能負担説ととれる。

一方で租税を「国家の保護」を根拠とし、不動産の管理費に例える部分では応益負担説であるともとれる。

 

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1.すべての国の国民は、政府を支えるために、各人の能力にできるかぎり比例して、つまり各人が国の保護のもとで得ている収入にできるかぎり比例して、税金を負担するべきである。大国の国民にとって政府の支出は、不動産の共同所有者が各人の持ち分比率にしたがって支払わなければならない管理費に似ている。

 

2.各人が支払う義務を負う税金は、恣意的であってはならず、確定したものにするべきである。支払いの時期、支払いの方法、支払い額のすべてが納税者に、そしてすべての国民に明確で分かりやすくなっていなければならない。そうなっていない場合、納税義務を負うものはみな、多かれ少なかれ徴税人に支配されることになる。徴税人は気に入らない納税者には税を重くできるし、あるいは税を重くすると脅して、賄賂を強要できる。

 

3.どの種類の税金も、支払の時期と方法がともに、納税者にとって便利である可能性が高いものにするべきである。土地の地代か住宅の家賃に課す税金は、地代や家賃が通常支払われる時期に徴収すれば、納税者にとって便利である可能性がとくに高い時期、支払いができる可能性がとくに高い時期に納付されることになる。贅沢品などの消費財に課される税金はすべて、最終的に消費者によって負担され、一般に消費者にとってとくに便利な方法で支払われる。商品を買うたびに、少しずつ支払っていく。消費者には買う自由も買わない自由もあるのだから、そうした税金で大きな不都合を被るとすれば、それは本人の責任だといえる。

 

4.どの種類の税金も、国民から支払われるか国民の受け取りを減らして徴収する金額と、国庫に入る金額との差ができるかぎり小さくなるように設計するべきである。

スミスの”戻し税”

スミスは輸出奨励策の一部として”戻し税”を理解している。そのうえで”戻し税”制度により「国内の税収は若干減少し、関税収入はかなり減少する。だが、産業の自然な比率、自然に生まれる分業と労働の配分は、関税や物品税のために多少なりとも乱されるのだが、戻し税制度によって本来の姿に近づくだろう。」と位置付けている。輸出奨励金制度の批判とは逆に”戻し税”については肯定しているのが興味深い。”戻し税”を税による価格の歪みの補正とみるか、輸出企業の補助金とみるか、原論的な分かれ目はこの部分の立ち位置にあるのではないだろうか。

 

注意が必要な点は”戻し税”の定義である。国富論ではほとんどの場合で「輸入品を再輸出する際の輸入関税の払い戻し」を意味している。輸出に際しての国内消費税の払い戻しという意味では用いていない。

 

現在ヨーロッパではEU委員会を中心に消費税の輸出免税制度廃止が提起されている。理由は不正還付の増大だそうだ。スミスは”戻し税”の不正についてもこう指摘している。

 

 戻し税は、輸出に際して還付が認められた商品が確かに外国に輸出される場合だけに有益であり、対象になった商品がこっそりと再輸入されるようであってはならないことに注意すべきだ。戻し税の一部、とくにタバコの戻し税ではこのような悪用が多く、財政収支にも正直な商人にも打撃になる不正行為が頻発していることはよく知られている。(アダムスミス「国富論」第四編第四章)

 

国富論」第四編第四章は非常に短い章ではあるが、現代においても示唆に富んでいる。

不破流マルクス恐慌論の備忘録

不破哲三氏が「科学的社会主義の理論の発展」で述べているマルクス恐慌論の要点備忘録。

 

資本論は一部完成稿、二部が比較的新しく、三部は古い草稿をベースとしている。とくに第三部第1章~3章は第一部草稿後に手がけられており、資本論の執筆順としては第一部完成稿を別とすれば一番古い。不破氏の整理は、これらをマルクスが書いた順に読んでいくということである。

 

革命論という角度から『資本論』とその諸草稿を読むと、そこにはマルクスの転換点があり、転換点の前後で内容が区分される。転換点である1865年以降の恐慌論によると、恐慌は、資本の循環過程の中で行われる一局面であり、資本主義の終末現象ではないということとなる。したがって当初の「恐慌=革命」という説も、まったく誤ったテーゼとなる。

 

 

1.転換点以前(1857~64)

 イ.「恐慌=革命」説の定式

「新しい革命は新しい恐慌につづいてのみ起こりうる。しかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である」(『フランスにおける階級闘争1850年

 

 ロ.恐慌の必然性を「利潤率低下の法則」と結びつける

 a.利潤率低下の法則が恐慌を生み、最後には「強力的転覆」、革命に至る(1857~58年草稿)

 

 b.大資本は利潤率が下がっても規模が大きいから乗り切れるが、小さい資本の場合は利潤率の低下がただちに経営危機のもとになり、冒険的な行動に乗り出す、これが大恐慌を引き起こす(1861~63年草稿)

 

 c.「利潤率の低下につれて、労働の生産的充用のために個々の資本家の手になければならない資本の最小限は増大する。この最小限は、労働の搾取一般のためにも、また充用労働時間が商品の生産に必要な労働時間であるためにも、すなわち充用労働時間が商品の生産に社会的に必要な労働時間の平均を超えないためにも、必要である、それと同時に集積も増大する。なぜならば、ある限界を超えれば、利潤率の低い大資本のほうが利潤率の高い小資本よりも急速に蓄積を進めるからである。この増大する集積は、それ自身また、ある高さに達すれば、利潤率の新たな低下をひき起こす。これによって、分散した小資本の大群は冒険の道に追い込まれる。投機、信用思惑、株式思惑、恐慌へと追い込まれる。」資本論第三部三篇15章(大月書店訳)

 

 

2.転換点以後(1865~) 恐慌の運動論の発見

 a.「生産物が売れるあいだは、資本家的生産者の立場から万事が正常に進行するのである。彼が代表する資本価値の循環は中断されない。そして、もしこの過程が拡大されているならば、このような、資本の再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要の)拡大を伴うことがありうる。なぜならば、これは生産的消費によって準備され媒介されているからである。このように剰余価値の生産も、またそれとともに資本家の個人的消費も増大し、再生産過程全体が非常に盛んな状態にあるのに、それにもかかわらず諸商品の一大部分はただ外観上消費にはいったように見えるだけで現実には売れていないで転売者たちの手のなかに滞留しており、したがって実際はまだ市場にあるということも、ありうるのである。そこで、商品の流れが次から次へと続いていくうちに、ついには以前の流れはただ外観上消費に飲み込まれただけだということがわかるのである。多くの商品資本が市場で争って席を奪い合う。あとから押し寄せるものは、とにかく売ってしまうために、投げ売りをする。前からきている流れがまださばけていないのに、その支払期限がやってくる。その持ち主たちは、支払不能を宣言せざるをえないか、または支払をするためにどんな価格でも売ってしまうよりほかはない。このような販売は、現実の需要の状態とはまったくなんの関係もない。それはただ支払に対する需要に、商品を貨幣に転化させることの絶対的な必要に、関係があるだけである。そこで、恐慌が起きる。恐慌が目に見えるようになるのは、消費的需要すなわち個人的消費のための需要の直接の減少によってではなく、資本と資本との交換の減退、資本の再生産過程の縮小によってである。」資本論第二部第1編第2章(大月書店訳)

 

 b.「ところで商人資本は、第一に、生産的資本のための段階W−Gを短縮する。第二に、近代的信用制度のもとでは、商人資本は社会の総貨幣資本の一大部分を支配しており、したがって、すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買入れを繰り返すことができる。その場合、われわれの商人が直接に最終消費者に売るのであろうと、両者のあいだに1ダースもの別の商人がはいっていようと、それはどうでもよいことである。与えられたどんな制限も乗り越えて絶えず推進されることのできる再生産過程の巨大な弾力によって、商人は生産そのものにはどんな限界も見出さないか、またはせいぜい非常に弾力のある限界を見いだすだけである。そこで、商品の性質から出てくるW—GとG—Wとの分離は別としても、ある仮想的な需要がつくりだされる。商人資本の運動は、その独立化にもかかわらず、けっして流通部面のなかでの産業資本の運動以外のものではない、しかし、その独立化のおかげで、商人資本はある範囲のなかでは再生産過程の限界にはかかわりなく運動するのであり、したがってまた再生生産過程をその限界を超えてまでも推進するのである。内的な依存性、外的な独立性は、商人資本を追い立てて、内的な関連が暴力的に、恐慌によって、回復されるような点まで行かせるのである。それだからこそ、恐慌がまず出現し爆発するのは、直接的消費に関係する小売業ではなく、卸売業やそれに社会の貨幣資本を用立てる銀行業の部面だという恐慌現象が生ずるのである。製造業者は現実に輸出業者に売るであろうし、輸出業者はまた外国の取引先に売り、輸入業者は原料を製造業者に売り、製造業者は自分の生産物を卸売商人に売るであろう、等等。しかし、どこか目に見えない一点で商品が売れないでたまっている。また別の場合には、すべての生産者や中間商人の在庫がだんだん過剰になってくる。そのような場合にこそ消費は最も盛んになるのが常であるが、そのわけは、あるいは一人の産業資本家が一連の他の産業資本家たちを動かすからであり、あるいはまた彼らの使用する労働者が完全に就業して平生よりも多く支出できるようになるからである。資本家の収入がふえれば彼らの支出もふえる。そのうえに、すでにみたように、不変資本と不変資本のあいだにも不断の流通が行われており、この流通は、けっして個人的な消費にはいらないというかぎりでは一応は個人的消費から独立しているが、しかし究極的にはこれによって限界を画されている、なぜならば、不変資本の生産はけっして不変資本そのもののために行われるのではなく、個人的消費にはいる生産物を供給する生産部面でより多くの不変資本が使用されるからこそ行われるのだからである。とはいえ、これもしばらく見込需要に刺激されて無事に進行することができ、したがってこれらの部門では商人も産業家も非常に景気よくやって行く。恐慌が現れるのは、遠方に売る個人(または国内でも滞貨を抱え込んでいる商人)の還流がおそくなり、まばらになって、銀行に支払を迫られ、仕入れた商品はまだ売れていないのにそのために振り出した手形は満期になるというときである。そこで、強制販売が始まり、支払いをするための販売が始まる。そうなればもはや破局であって、それは外観的繁栄に一挙に終末を与えてしまうのである。」資本論第三部第4編第18章(大月書店訳)