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本町スタンダード研究所

スタンダード・インプット・アウトプット

相続税の矛盾

相続対策で一番効率がよいものは何か。

 

1.教育にお金をかける

2.会社を継がせる

3.資産を継がせる

 

2は会社を継ぐ能力も必要となることから、必然的にそれに伴う教育費も含まれることになるだろう。つまり2は1も含む。3の場合も財産管理の知識は必要だろうが、会社経営程ほどの知識は必要ないだろう。税制面で言うと1は課税対象とはならない。2は株や事業用資産が課税対象となる。3は相続した資産が課税対象となる。1、2は承継者が直接リスクを負うこととなるが、3はリスクはない。

 

どれが一番効率がよいだろうか。教育にお金をかけず、子が自立できなければ、子の生活費負担まで発生する。子の老後までの面倒を見ようとすると、お金はいくらあっても足りないだろう。税制的にも、社会的にも1の対策が望ましいのではないだろうか。ただし、いざ相続対策となった時点で考えても教育には一足飛びに対応はできない。これが唯一の難点である。

 

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 金持ちの親が子供に資産を残してやりたいと思ったら、いろいろなやり方が可能だ。たとえば資産を教育費に投じて、公認会計士の勉強をさせ資格をとらせることができる。あるいは事業を興して跡を継がせることができる。あるいは信託基金を設定し利息や運用益が入るようにしてやることもできる。どの方法をとっても、何もしてやらない場合より子供の収入が増えることはまちがいない。だが、第一の方法では本人の能力による収入、第二の方法では本人の働きによる利益とみなされるのに対し、第三の方法では相続財産による収入とみなされるだろう。しかし、この三つを区別するまともな根拠があるとは私には思えない。それに、自分の能力や才能で生み出した富は好きにしてよいし、自分が築き上げた富が生む利益も好き勝手にしてよいが、富を子供に譲るのは認められないというのは、つじつまが合わないではないか。ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」村井章子訳p298-299) 

自由主義と法人税

 日税連の機関紙である「税理士界」(平成28年11月15日付)に、「税理士が絶滅危惧種に陥る日」と題した記事がある。AIの進化によってしても、実質基準や事実認識の判断にはまだまだ及ばない。ましてや税務調査、税務相談は無理だろうというものである。次いで「申告納税制度は自由主義国家における税の世界で最も民主的な手続きとして長い歴史の中で定着してきた。」、「税理士制度はその申告納税制度に極めて重要な役割を担う、いわば自由と人権を尊重し守るために、社会にとってなくてはならない、かけがえのない財産である。」とし、「税理士がなくなる日は永久に来ないものと確信する。」とまとめられている。

 ところで自由主義国家における税とは何であろうか。その答えはたえず宙に浮いている。新自由主義を代表するミルトン・フリードマンの主著「資本主義と自由」によれば、自由主義においては、法人税は廃止すべき税であると主張している。国際的な法人税引き下げによる底辺への競争が加速する中、法人税廃止論もどこからかわき上がってくる可能性は否定できない。法人税がなくなれば税理士もなくなる。そんな時代も可能性としてはゼロではないように思う。

 

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 独占を根本から防ぐもっと効率的な手段は、税制改正である。まず、法人税は廃止すべきだ。また法人税を廃止してもしなくても、企業は配当として払い出さなかった利益も株主の所有に帰すべきである。具体的には配当金の小切手を送付するときに、次のような報告書を添付する。「株主の皆様には、一株当たり○○セントのこの配当金に加え、一株あたりXXセントの利益がございます。こちらは弊社が再投資いたしました。」報告を受けた株主は、配当金だけでなく、自分のものではあるが、配分されなかったこの利益も所得税の申告に含めなければならない。この仕組みでも企業が再投資するのは自由だが、再投資に回す利益を明言する以上、株主が配当を自分で別途投資するより企業の投資効果の方が高いときしか、再投資できなくなるだろう。これは、資本市場や企業活動を刺激し、競争を活性化するきわめて効果的な手段だと信じる。(ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」村井章子訳p247-248)

スミスの租税原則

 スミスの有名な租税原則。「能力にできるかぎり比例」という部分をとりあげれば応能負担説ととれる。一方で租税を「国家の保護」を根拠とし、不動産の管理費に例える部分では応益負担説であるともとれる。

 

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1.すべての国の国民は、政府を支えるために、各人の能力にできるかぎり比例して、つまり各人が国の保護のもとで得ている収入にできるかぎり比例して、税金を負担するべきである。大国の国民にとって政府の支出は、不動産の共同所有者が各人の持ち分比率にしたがって支払わなければならない管理費に似ている。

 

2.各人が支払う義務を負う税金は、恣意的であってはならず、確定したものにするべきである。支払いの時期、支払いの方法、支払い額のすべてが納税者に、そしてすべての国民に明確で分かりやすくなっていなければならない。そうなっていない場合、納税義務を負うものはみな、多かれ少なかれ徴税人に支配されることになる。徴税人は気に入らない納税者には税を重くできるし、あるいは税を重くすると脅して、賄賂を強要できる。

 

3.どの種類の税金も、支払の時期と方法がともに、納税者にとって便利である可能性が高いものにするべきである。土地の地代か住宅の家賃に課す税金は、地代や家賃が通常支払われる時期に徴収すれば、納税者にとって便利である可能性がとくに高い時期、支払いができる可能性がとくに高い時期に納付されることになる。贅沢品などの消費財に課される税金はすべて、最終的に消費者によって負担され、一般に消費者にとってとくに便利な方法で支払われる。商品を買うたびに、少しずつ支払っていく。消費者には買う自由も買わない自由もあるのだから、そうした税金で大きな不都合を被るとすれば、それは本人の責任だといえる。

 

4.どの種類の税金も、国民から支払われるか国民の受け取りを減らして徴収する金額と、国庫に入る金額との差ができるかぎり小さくなるように設計するべきである。

スミスの”戻し税”

スミスは輸出奨励策の一部として”戻し税”を理解している。そのうえで”戻し税”制度により「国内の税収は若干減少し、関税収入はかなり減少する。だが、産業の自然な比率、自然に生まれる分業と労働の配分は、関税や物品税のために多少なりとも乱されるのだが、戻し税制度によって本来の姿に近づくだろう。」と位置付けている。輸出奨励金制度の批判とは逆に”戻し税”については肯定しているのが興味深い。”戻し税”を税による価格の歪みの補正とみるか、輸出企業の補助金とみるか、原論的な分かれ目はこの部分の立ち位置にあるのではないだろうか。

 

注意が必要な点は”戻し税”の定義である。国富論ではほとんどの場合で「輸入品を再輸出する際の輸入関税の払い戻し」を意味している。輸出に際しての国内消費税の払い戻しという意味では用いていない。

 

現在ヨーロッパではEU委員会を中心に消費税の輸出免税制度廃止が提起されている。理由は不正還付の増大だそうだ。スミスは”戻し税”の不正についてもこう指摘している。

 

 戻し税は、輸出に際して還付が認められた商品が確かに外国に輸出される場合だけに有益であり、対象になった商品がこっそりと再輸入されるようであってはならないことに注意すべきだ。戻し税の一部、とくにタバコの戻し税ではこのような悪用が多く、財政収支にも正直な商人にも打撃になる不正行為が頻発していることはよく知られている。(アダムスミス「国富論」第四編第四章)

 

国富論」第四編第四章は非常に短い章ではあるが、現代においても示唆に富んでいる。

資本論第2巻

誰もが挫折する資本論第2巻。

ここでは資本家と労働者の対立は脇におかれ、資本の循環モデルを明らかにしている。

「純粋な資本の運動」を観測する中で資本主義社会の制約が浮かび上がってくる。

 

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 「純粋な状態における資本」という観念はマルクスにとって重要である。なぜなら、恐慌に直面した場合、この恐慌は何らかの不純さのせいだとか、「純粋で」完璧な資本主義的生産様式がうまく機能しなかったせいであると言ってすますことが常に可能だからである。われわれは、この数年間というもの、新自由主義者たちからさんざん次のように聞かされてきた。問題は-と彼らは言う-、市場資本主義の新自由主義的モデルそのものの内部に存在する何らかの深刻な矛盾にあるのではなく、新自由主義の命じるところにきちんと従わなかったことにあるのだ、と。それゆえ彼らの解決策は、緊縮政策を推し進め国家権力をますます無力化することを通じて資本をもっとさらに純粋な状態へと回帰させることである。だがマルクスが示そうとしているのは、恐慌が純粋きわまりない資本主義的生産様式の存続そのもののうちに内在し、それに必然的に伴い、その固有の病だということである。どれほど間に合わせの規制改革をやろうとも問題を解決することができないだけでなく、むしろ経済がその純粋な状態に接近すればするほど、おそらく恐慌はますます深刻になるだろう。

デヴィッド・ハーヴェイ『<資本論> 第2巻・第3巻入門』p30)

マルクスを読む意義

マルクスの理論はとてもシンプル。

フクザツに見えるのは、きっと世の中が物神的な世界におおわれているから。

忙しい現代人には日々の現象を追うだけで精一杯。

 

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 マルクスの理論化がわれわれにとってどのように役立ちうるのか、また現在の具体的状況を分析するのに自ら何をしなければならないのか、この問題は常に、資本主義の恐るべき歴史をマルクス主義的に理解するいかなる試みにあっても、重要な柱にならなければならない。たとえば、われわれは、現在進行しているさまざまな事態を取り上げ、それをマルクスの理論の何らかのバージョンにそのままあてはめれば、出来合いの回答がポンと出てくるなどと期待することはできない。マルクスが実際に提供しているのは、物神的な現象世界の背後を把握する思考様式であって、それを通じて、われわれが直面している現在の状況のうちに内在している解放の可能性を特定するのである。

デヴィッド・ハーヴェイ『<資本論> 第2巻・第3巻入門』p514)

資本主義と市場原理主義

資本主義は仕組みとして不完全。これだけは間違いなく歴史において証明されている。

 

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 世の中には民主主義と資本主義はともに手を携えて進んでいくという仮定が広くいきわたっている。実際はその関係はもっとはるかに複雑である。資本主義は民主主義を平衡回復力として必要とする。資本主義制度は自力では、均衡に向かう性向をなにも持ち合わせていないからである。資本の所有者は自分たちの利潤を最大限にしようとする。彼らの考えるままに任せておけば、彼らの資本蓄積は事態が均衡を崩すときまで続くだろう。マルクスエンゲルスは百五十年前に、この資本主義制度をきわめて見事に分析してみせた。それはある意味では、古典派経済学の均衡理論より優れていたと私は言いたい。二人が処方した治療策の共産主義は病気そのものより悪質だった。だが、彼らの悲惨な予言が現実のものとならなかったのは、民主主義諸国でそれに対抗する政治介入があったからだった。

 不幸なことに、われわれはいままた歴史の教訓から間違った結論を引き出す危険に見舞われている。今回はその危険は共産主義ではなく、市場原理主義に発するものである。共産主義市場メカニズムを廃止し、すべての経済活動に集団的な統制を課した。市場原理主義は集団的な意思決定を廃止し、すべての政治的、社会的価値に対し市場価値絶対優先主義を課した。いずれの極論も誤っている。われわれが必要とするのは政治と市場との間の、またルールづくりとルールに従うプレーとの間の、正しいバランスなのである。

ジョージ・ソロスグローバル資本主義の危機』p32-p33)