マルクス主義の思想的意義

社会全体を学問する。

これほど知的好奇心を刺激すことが、なぜ知的世界から失われ、そして今も失われ続けるのだろうか。

 

--------------------------

(日本におけるマルクス主義の思想史的意義)

 第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追及するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、コント、ルソー、スペンサー、バックルなどの移植された明治初期にはあったけれども、一つには天皇制の統合過程によって、また二つにはあたかもヨーロッパでは十九世紀以降、社会科学の個別化専門化が急速に進行しアカデミーの各科がそうした初めから専門化された学問形態を受け入れる一方、ジャーナリズムはますます大衆化したという事情の為に、知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。

丸山真男『日本の思想』p55-p56)

資本論を読む

資本論』は読む人によってさまざまに語られる。

経済学理論書であり、経済学批判書であり、文学作品であり、哲学書であり、ノンフィクション作品であり、予言書である。

いろいろな人が語るものを読むよりも、まず『資本論』そのものを読む。

100の解説よりもナマの『資本論』が一番面白い。

 

--------------------------

 たしかに、われわれは皆『資本論』を読んできたし、いまも読んでいる。もうすぐ百年にもなろうという年月に、われわれの歴史のドラマと夢のなかで、論争と対立のなかで、いまもわれわれの唯一の希望にして運命である労働運動の挫折と勝利のなかで、われわれは、毎日、誠実に『資本論』を読んできた。われわれが「この世に生まれて」このかたずっと、上手下手はともかくわれわれのために『資本論』を読んでくれたひとびとの著作や言説をたよりにして、われわれは『資本論』を読み続けている。その種のひとびとは、時代遅れのものもいれば、まだ生き続けているものもいるが、エンゲルス、カウツキー、プレハーノフ、レーニン、ローザ・ルクセンブルクトロツキースターリングラムシ、労働者組織の指導者たち、彼らの味方と敵、哲学者、経済学者、政治家などがそうである。われわれはは彼らの書いた断片を、状況がわれわれのために選んでくれた「抜粋集」を読んだ。われわれの誰もがともかくも『資本論』第一巻を、第一章の「商品」から結語の「搾取者たちが収奪される」までを読んではいる。

 けれども、いつかはきっと、『資本論』を文字通りに読まなくてはならない。テクストそのものを。

ルイ・アルチュセールほか『資本論を読む』)

マルクス恐慌論の論点整理

不破哲三氏が「科学的社会主義の理論の発展」で語っているマルクス恐慌論の整理が面白いのでまとめておく。資本論は一部完成稿、二部が新しく、三部は古い草稿をベースとしている。とくに第三部第1章~3章は第一部草稿後に手がけられており、資本論の執筆順としては第一部完成稿を別とすれば一番古い。不破氏の整理は、これらをマルクスが書いた順に読んでいくということである。

 

革命論という角度から『資本論』とその諸草稿を読むと、そこにはマルクスの転換点があり、転換点の前後で内容が区分される。転換点である1865年以降の恐慌論によると、恐慌は、資本の循環過程の中で行われる一局面であり、資本主義の終末現象ではないということとなる。したがって当初の「恐慌=革命」という説も、まったく誤ったテーゼとなる。

 

 

1.転換点以前(1857~64)

 イ.「恐慌=革命」説の定式

「新しい革命は新しい恐慌につづいてのみ起こりうる。しかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である」(『フランスにおける階級闘争1850年

 

 ロ.恐慌の必然性を「利潤率低下の法則」と結びつける

 a.利潤率低下の法則が恐慌を生み、最後には「強力的転覆」、革命に至る(1857~58年草稿)

 

 b.大資本は利潤率が下がっても規模が大きいから乗り切れるが、小さい資本の場合は利潤率の低下がただちに経営危機のもとになり、冒険的な行動に乗り出す、これが大恐慌を引き起こす(1861~63年草稿)

 

 c.「利潤率の低下につれて、労働の生産的充用のために個々の資本家の手になければならない資本の最小限は増大する。この最小限は、労働の搾取一般のためにも、また充用労働時間が商品の生産に必要な労働時間であるためにも、すなわち充用労働時間が商品の生産に社会的に必要な労働時間の平均を超えないためにも、必要である、それと同時に集積も増大する。なぜならば、ある限界を超えれば、利潤率の低い大資本のほうが利潤率の高い小資本よりも急速に蓄積を進めるからである。この増大する集積は、それ自身また、ある高さに達すれば、利潤率の新たな低下をひき起こす。これによって、分散した小資本の大群は冒険の道に追い込まれる。投機、信用思惑、株式思惑、恐慌へと追い込まれる。」資本論第三部三篇15章(大月書店訳)

 

 

2.転換点以後(1865~) 恐慌の運動論の発見

 a.「生産物が売れるあいだは、資本家的生産者の立場から万事が正常に進行するのである。彼が代表する資本価値の循環は中断されない。そして、もしこの過程が拡大されているならば、このような、資本の再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要の)拡大を伴うことがありうる。なぜならば、これは生産的消費によって準備され媒介されているからである。このように剰余価値の生産も、またそれとともに資本家の個人的消費も増大し、再生産過程全体が非常に盛んな状態にあるのに、それにもかかわらず諸商品の一大部分はただ外観上消費にはいったように見えるだけで現実には売れていないで転売者たちの手のなかに滞留しており、したがって実際はまだ市場にあるということも、ありうるのである。そこで、商品の流れが次から次へと続いていくうちに、ついには以前の流れはただ外観上消費に飲み込まれただけだということがわかるのである。多くの商品資本が市場で争って席を奪い合う。あとから押し寄せるものは、とにかく売ってしまうために、投げ売りをする。前からきている流れがまださばけていないのに、その支払期限がやってくる。その持ち主たちは、支払不能を宣言せざるをえないか、または支払をするためにどんな価格でも売ってしまうよりほかはない。このような販売は、現実の需要の状態とはまったくなんの関係もない。それはただ支払に対する需要に、商品を貨幣に転化させることの絶対的な必要に、関係があるだけである。そこで、恐慌が起きる。恐慌が目に見えるようになるのは、消費的需要すなわち個人的消費のための需要の直接の減少によってではなく、資本と資本との交換の減退、資本の再生産過程の縮小によってである。」資本論第二部第1編第2章(大月書店訳)

 

 b.「ところで商人資本は、第一に、生産的資本のための段階W−Gを短縮する。第二に、近代的信用制度のもとでは、商人資本は社会の総貨幣資本の一大部分を支配しており、したがって、すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買入れを繰り返すことができる。その場合、われわれの商人が直接に最終消費者に売るのであろうと、両者のあいだに1ダースもの別の商人がはいっていようと、それはどうでもよいことである。与えられたどんな制限も乗り越えて絶えず推進されることのできる再生産過程の巨大な弾力によって、商人は生産そのものにはどんな限界も見出さないか、またはせいぜい非常に弾力のある限界を見いだすだけである。そこで、商品の性質から出てくるW—GとG—Wとの分離は別としても、ある仮想的な需要がつくりだされる。商人資本の運動は、その独立化にもかかわらず、けっして流通部面のなかでの産業資本の運動以外のものではない、しかし、その独立化のおかげで、商人資本はある範囲のなかでは再生産過程の限界にはかかわりなく運動するのであり、したがってまた再生生産過程をその限界を超えてまでも推進するのである。内的な依存性、外的な独立性は、商人資本を追い立てて、内的な関連が暴力的に、恐慌によって、回復されるような点まで行かせるのである。それだからこそ、恐慌がまず出現し爆発するのは、直接的消費に関係する小売業ではなく、卸売業やそれに社会の貨幣資本を用立てる銀行業の部面だという恐慌現象が生ずるのである。製造業者は現実に輸出業者に売るであろうし、輸出業者はまた外国の取引先に売り、輸入業者は原料を製造業者に売り、製造業者は自分の生産物を卸売商人に売るであろう、等等。しかし、どこか目に見えない一点で商品が売れないでたまっている。また別の場合には、すべての生産者や中間商人の在庫がだんだん過剰になってくる。そのような場合にこそ消費は最も盛んになるのが常であるが、そのわけは、あるいは一人の産業資本家が一連の他の産業資本家たちを動かすからであり、あるいはまた彼らの使用する労働者が完全に就業して平生よりも多く支出できるようになるからである。資本家の収入がふえれば彼らの支出もふえる。そのうえに、すでにみたように、不変資本と不変資本のあいだにも不断の流通が行われており、この流通は、けっして個人的な消費にはいらないというかぎりでは一応は個人的消費から独立しているが、しかし究極的にはこれによって限界を画されている、なぜならば、不変資本の生産はけっして不変資本そのもののために行われるのではなく、個人的消費にはいる生産物を供給する生産部面でより多くの不変資本が使用されるからこそ行われるのだからである。とはいえ、これもしばらく見込需要に刺激されて無事に進行することができ、したがってこれらの部門では商人も産業家も非常に景気よくやって行く。恐慌が現れるのは、遠方に売る個人(または国内でも滞貨を抱え込んでいる商人)の還流がおそくなり、まばらになって、銀行に支払を迫られ、仕入れた商品はまだ売れていないのにそのために振り出した手形は満期になるというときである。そこで、強制販売が始まり、支払いをするための販売が始まる。そうなればもはや破局であって、それは外観的繁栄に一挙に終末を与えてしまうのである。」資本論第三部第4編第18章(大月書店訳) 

マルクス著作・執筆年表

マルクスの著作を読む場合、どの時代のマルクスを読んでいるのかをたえずイメージすると面白い。『資本論』は一部完成稿、二部(2章以降)が新しく、三部がより古くに書かれている。その執筆の過程で認識及び理解に変化がある。

 

1844.2 「独仏年誌」に『ヘーゲル法哲学批判序説』、『ユダヤ人問題のために』を掲載

1844.5 「経済学・哲学草稿」第1稿を執筆

1845 『ドイツ・イデオロギー』執筆(エンゲルスと共同)

1847 『哲学の貧困』刊行

1848 『共産党宣言』刊行

1849.4 「新ライン新聞」に『賃労働と資本』を掲載(計5回)

1852 『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』刊行

1857~58 「57~58年草稿」(ノート7冊)

1859 『経済学批判』第1分冊刊行

1861~63.7  「61~63年草稿」(ノート23冊)

1863.8~64.夏 『資本論』第一部草稿執筆

1864 後半 『資本論』第三部第1章~3章執筆

1865前半 『資本論』第二部1章執筆

1865.6 国際労働者協会の中央評議会で『賃金・価格・利潤』について講演

1865年後半 『資本論』第三部第4章~7章執筆

1866~67.4 『資本論』第一部完成稿執筆

1867.9  『資本論』第一部刊行

1867~81 『資本論』第二部草稿執筆(未完)

1871 『フランスにおける内乱』執筆

1875 『ゴーダ綱領批判』執筆

1883 マルクス死去

1885 『資本論』第二部刊行(エンゲルス編集)

1891 『賃労働と資本』再刊(エンゲルスが序論を執筆)

1894 『資本論』第三部刊行(エンゲルス編集)

1895 エンゲルス死去

 

*年表は不破哲三氏の「科学的社会主義の理論の発展」p21参照

アーミテージ・ナイ緊急提言

集団的自衛権の行使容認論解釈改憲はそもそもアメリカとの共同作業か。

2010年の出版ということを考えると、だいぶ前から絵は描き上がっていたとみるべきなのだろうか。

ここまで筋書きができていると、単なる陰謀論では片付けられない。

知れば知るほど恐ろしい。

 

--------------------------

憲法九条と集団的自衛権(P270〜P272)

 

春原:日米同盟の進化・発展に向けて、日本がクリアすべき課題とは何でしょう。

 

アーミテージ:それは日本人が自ら決めることですね。それが第一に言えることです。次に憲法九条と集団的自衛権の問題は、この同盟関係にとって阻害要因となっています。それが二番目。三番目に言いたいのは、何も日本は憲法を改正する必要はないということです。ただ、内閣法制局による(憲法九条の)解釈を変えればいいのです。第四のポイントは繰り返しになりますが、ソマリア沖での自衛隊による活動(海賊対策)は集団的自衛権の行使と何ら変わりはないということです。中国が宮古海峡尖閣諸島の周辺に海軍の艦船を派遣して日本をいら立たせているのに、なぜ、日本はリスク・フリーの切符を中国に易々と与えているのでしょうか?

 

春原:内閣法制局の問題は色々な人が口にし始めていますが、一番熱心に指摘しているのは小沢一郎です。憲法解釈について、時には総理大臣をも超える権限を持っている内閣法制局の在り方を小沢氏はいつも批判しています。

 

アーミテージ:ただ、内閣法制局を廃止してしまったら、次に行き着くのは即、憲法改正ということになりますよ。内閣法制局があれば、まずそこに問題を提起して適切な議論を行えるでしょう。実際、それは現在も行われていることではありますが。

 

春原:ということは、憲法九条についてアーミテージさんは「改正」を望んでいるというよりも「解釈」の変更を求めている、ということですか?

 

アーミテージ:そうです、解釈変更です。憲法の条文はすでにそこにあります。日本はただ、自縄自縛に陥っているだけです。何度も言いますが、ソマリアジブチで日本が行っていること(と「憲法九条で禁じられている」と日本人が信じている軍事活動)に何の違いがあるのですか?二十一カ国と共同で海賊対策にあたっている日本の行動は集団的自衛権の行使以外の何物でもないのです。

 

春原:それは「国家的偽装(Disguise)」だと?

 

アーミテージ:そうでしょう。

 

春原:ただ、戦後、GHQから与えられた平和憲法を純粋に信じた日本人、特に知的、あるいは「進歩的」と言われるエリート層には「憲法九条が集団的自衛権の行使も禁じている」と感覚的、あるいは絶対的に思い込んでいる部分があるのも事実です。

 

アーミテージ:それが時として便利でしたからね。つまり、我々の陰に隠れていればよかったのですから。

 

春原:ナイ教授は改憲と解釈変更のどちらが日本にとって望ましいと思いますか?

 

ナイ:個人的な見解ですが、「九条改正」という戦いに精力を注ぐよりも「解釈改憲」で行くべきだと思います。私は日本が集団的自衛権を有していると考えています。そのためには憲法改正という「大戦」に臨むよりも、その解釈を変えることで集団的自衛権を可能にする方が得策でしょう。

第三次アーミテージリポート

いまさらながら、第三次アーミテージリポートを読む。

 

原発推進TPP推進、秘密保護法、武器輸出三原則の見直し、沖縄問題、中国脅威論、ホルムズ海峡の機雷掃海、防衛装備の拡大、集団的自衛権の行使、、、、。

 

今日本で議論されている重要な議論のほぼ全てが網羅されている。

びっくりするほど簡潔に、赤裸々に、まったくのアメリカの都合で書かれている。

そしてそのほぼ全てにおいて日本政府がとっている行動と一致している。

 

安倍首相が行っていることは、「日本を、取り戻す。」ではなく「日本を、売り飛ばす。」ではないか。

イエス or ノー

景気は回復している、していない

 

格差は拡大している、していない

 

賃金は上がっている、上がっていない

 

汚染水は完全にブロックされている、されていない

 

日本の平和が脅かされる、されない

 

派遣社員が固定化される、されない

 

.........

 

 

同じことがらを見ていても、人によっては正反対の結論に至る。

今にはじまったことではないが最近はとくに顕著だ。

 

結果として、イエスかノーかという正反対の単純化されたモノだけが残る。

 

なんらかのデータが不足しているのだろうか。

もしくはお互いの議論が深まっていないためだろうか。

それともメディアの報道が悪いのだろうか。

 

景気が良いのか、悪いのか、いつまでたっても判断がつかない世の中。